上智大学理工学振興会


理工学振興会会報 ソフィア サイテック No.7
1996年4月発行


サイテックレポート
「クメール文化とアンコール・ワット」
上智大学外国語学部長・教授
石澤 良昭



目 次

  1. 植物文明世界の中のアンコール朝
  2. インドから文化枠組を受容したアンコール朝
  3. 「神々が降臨する祠」を建てたアンコールの王たち
  4. カンボジア独自の政治美術作品混淆信仰が発展
  5. アンコールワットは300余年の土着技術の集大成
  6. 変革を求めたジャヤヴァルマン7世
  7. アンコール朝の崩壊と水利潅漑システム
  8. 旧アンコール都城と日本人
  9. 諸寺院の栄光と石材の変質
  10. 上智大学アンコール遺跡国際調査団の17年間の活動


1.植物文明世界の中のアンコール朝

 アンコール朝が成立した東南アジアは、別名植物文明世界といわれている。 住人たちは高温多湿の自然環境から計り知れない恵みを受け、他の地域との交易 などに依存しなくとも日常生活が可能であった。そのために東南アジア各地では 地域独立的な生活の場が形成され、それ故に現在まで数百におよぶ少数民族が存 続し、各地に多くの言語や文化が保持されてきた。この恵まれた自然がアンコー ル朝の発展に大きくかかわりをもってきたことはいうまでもない。この王朝がい かなる歴史展開をしてきたかは、現存する遺跡とその分布地域、石に刻まれた碑 文と考古発掘による出土品、さらに漢籍等の証拠からおおよその輪郭が判明して いる。

 アンコール遺跡はカンボジア北西部、シエムリアップ州のトンレサップ湖 北西岸一帯(アンコール地方)にある石造やレンガ造りの遺跡群を指し、アンコ ール朝(802〜1431ごろ)治下に建造された寺院、祠堂、貯水池、橋梁、宗教都 城などの遺構のことである。特にシエムリアップ市(プノンペン北西313キロ) 郊外には有名なアンコールワット、アンコールトムなど主要な26遺跡があり、そ の特色は、規模の壮大さ、圧巻な高塔建築、建築装飾としての造形美術が見事で あり、東南アジア最大の文化遺産としてしられる。遺跡は当時の社会が作り出し た構築物で、その時代精神と当時の技術力を凝集している。遺跡研究を通じて領 城、政治、社会、宗教、技術、生活状況、宇宙観などが判明してくる。王朝の盛 衰は遺構の増減と一致しており、繁栄した長期にわたる政権は大遺跡の建立を可 能にしてきた。

 アンコール朝は神聖な王権を背景に富国強兵政策を掲げ、12世紀から13世 紀初めにかけての最盛期には、その領域は現在のラオスのビエンチャンからタイ 中部のスコータイまで及び、西がチャオプラヤー川流域まで、南がマレー半島中 部、東がベトナム南部から中部におよぶ大版図であった。各地へ通じる幹線道は 戦象軍が走れるように踏み固められていた。最盛期の王都の人口は約60万人にも 達していたという。現在もカンボジアの国道6号線(トンレサップ湖の東岸を走 る国道)のうち約70キロ以上が往時の土手道をそのまま使っており、ラテライト (紅土)造りの石橋の上を今はトラックが走っている。

2.インドから文化枠組を受容したアンコール朝

 インド人航海者が紀元前後から、金香料象牙タイマイ(鼇甲の原料とされ る海亀)、その他の森林の物産などを求めて、東南アジアへ頻繁に来航していた モンスーンを利用した航海術や遠洋航海用の造船技術が発達し、両地域を結びつ けた。東南アジア各地では仏教をはじめインドからの諸宗教が土着の精霊信仰な どと結び付き、それなりの衣替えをしながら受容されていた。こうした交易や物 流を裏付けるローマ方面や西方世界からの出土品は、コーチシナ(ベトナム南部) のオケオ遺跡などから発見されている。

 こうした通商の拡大に伴って、海上交易路上には風待ち地、積み替え地、物 産の集散地、水の補給地などの中継的機能をもった港市が各地に誕生した。港市は 航路に沿って西から、ビルマ南部のモン人の国、マレー半島の西岸と東岸、チャオ プラヤー川流域の中小港市国家、シャム湾に面した扶南、インドシナ東岸のチャン パ(林邑)などがそれにあたる。

 これら港市では交易を通じて、インドからは犂耕水稲と潅漑、宗教儀礼と王 権の概念、文字、美術様式、武器などのインド文化がもたらされた。この扶南は2 世紀ごろ、カンボジア南部のメコン川デルタ地帯に誕生した国であった。港市のオ ケオは中継貿易港であり、メコン川水系を通じて集められる森林の物産の集散地で もあった。扶南の後背地の内陸部では干拓や水路の掘削によって、沼沢、湿地帯を 肥沃な耕地に変える工事が行われていた。インド的枠組みをもったこの扶南国には、 229年に中国の呉から使節が来航し、インドのクシャーナ朝(大日氏国)とも使節 の往来があった。

 別の国であるクメール真臘は、かなり早くからラオス南部のチャンバサック 地方から興ってきたようである。メコン川を通じてカンボジア中部の大平原へ南下 し、6世紀に南部に在った扶南を吸収合併したといわれる。カンボジア中部のコン ポントム州には7世紀初めイーシャーナプラ(伊者那城)の大城があって、イーシ ャーナヴァルマン王(616登位)が統治していたという。8世紀初めごろこのクメー ル真臘が南部の水真臘と北部の陸真臘に分裂し、カンボジア各地には大小の地方の 政治拠点があったようである。8世紀末ごろジャヤヴァルマン2世が各地を征討し、 トンレサップ湖東北岸のアンコール地方に拠点をおいて、国内統一を成し遂げた。

3.「神々が降臨する祠」を建てたアンコールの王たち

アンコールの王たちは即位するとすぐに世界の中心山に相当する大寺院とその 都城を建設しなければならなかった。これが王たる証しでもあった。

 アンコール遺跡は、そのほとんどが宗教建造物である、石造寺院群は、基本 的にその建築様式から2類型に分類される。基壇上に列状に配列された平面展開 祠堂様式と、アンコールワット(中央祠堂の高さ65メートル)のような高塔堂を ピラミッド状に積み上げた山岳寺院様式の2種類である。また、その用途と祭祀 から前者は主として王の身内など個人の墳墓を兼ねたもので、祖先を祀るので 「祖寺」と呼び、後者は世界の中心山を表す世界観に基づいているので「山寺」 と呼ぶ。

 このピラミッド状山岳型寺院の建設目的は、王の神格化に結び付いた当時 の神の世界をこの地上に造営したものであった。アンコールトムには都城の中心 に高さ45メートルでそびえ立つバイヨン寺院がある。アンコールワットの中央祠 堂などと共にそこは神々が降臨する世界の中心山の須弥山(メール山)を象徴し たものであった。そこから世界へ通じる南北の基軸道路が走り、寺院の境内には 当時の人々が想像した天界と同じように諸寺院、僧院、王宮などが配置され、高 い城壁はヒマラヤの霊峰に見立てられ、環濠は深い大洋を象徴していた。

 これら寺院の中央祠堂内では王と神を合祀した特別な神像(神王すなわちデ ヴァラージャ)が安置され、礼拝されていたという。この神王の考え方はカンボ ジアではヒンドゥー教のシヴァ神と王を合祀した神像を礼拝したことからはじま り、これが王権の神格化と結び付いて発展した。ジャヤヴァルマン7世統治下で は王と観世音菩薩の合祀も同じ形式であった。

 アンコール時代初期には煉瓦と紅土に砂岩を部分的に併用していたが、10 世紀ごろから紅土と砂岩が主要建材となり、扉や門は木造であった。そして砂岩 を化粧石として使い、壁面に美しい浮き彫り絵図や図像を彫り刻んでいた。11世 紀初期に建築技術の飛躍があり、12世紀にアンコールワットのようなピラミッド 型の高塔大寺院が実現した。


アンコール・ワット寺院西正面(12世紀前半)


4.カンボジア独自の政治美術作品混淆信仰が発展

 9〜10世紀の東南アジアは、かねてからインド的原理を土着社会の中で 咀嚼してきた結果、各分野にわたり醸成した独自の諸成果が創出された時代で あり、自前の建物や民族語の碑刻文、美術諸作品、混淆信仰などがつくりださ れた時代であった。東南アジアはインドと中国を結ぶ中継貿易の要衝として組 み込まれ、世界史の中に重要な地域として登場してきたのである。こうした東 西文化交流の恩恵を受けて東南アジアでは各地に大小の国々が興亡したが、特 にアンコール朝は、潅漑による内陸農耕社会が発展した国であった。

 802年にジャヤヴァルマン2世(在位802〜834年?)がアンコール朝を創 設した。4代目ヤショヴァルマン王(在位889〜910年頃)の治下では、王にち なんだ「ヤショダラブラ」王都が造営された。この都城は、自然の小丘ブノン バケンを中心に一辺4キロの方形の環濠で囲まれ、付属施設として東側に東西 7キロ、南北1.8 キロの巨大な貯水池東バライが開掘された。アンコール地域では地下2メート ルほどのところに水を通さない粘土層があり、保水性はよかった。他に当時は 大寺院の建立、盛土した都城周壁など土木工事が続き、全国から村人が動員さ れ、戦争捕虜もいて、10世紀当時で20万人以上が居住していたと思われる。環 濠と貯水池は、村落における用水池潅漑と水利築堤の考え方および治水技術を 発展させたものであり、経済基盤は小規模潅漑による農業であった。この築堤 の技術は中央と地方を結ぶ道路網の建設にも使われ、すべての道はアンコール へ通じていた。

 このヤショヴァルマン王の後しばらくして国内がいくつかの地方勢力に 分裂した。ラジェンドラヴァルマン王(在位944〜969)は王都をアンコールに 再建し、国内を再統一して東隣国チャンパに遠征した。中心寺院ブレループ (961)および東メボン(9 52)の大遺跡が残っている。その後平穏な時代が30年あまり続き、秀麗な小寺 バンテアイスレイが建立された(967)。王位継承権争いの中、実力で登位し たスールヤヴァルマン1世(在位1002〜1050)は、王宮楼門およびビミアナカ ス寺院、クレアン小寺群などを建立し、チャオプラヤー川流域のロッブリー (ルヴォ=羅斛)まで領域を拡大した。

 アンコール都城では、新たに大貯水池が開掘され、導水貯水の技術がさ らに発展し、村落でもこの技術が実用化されて、水利網による耕地が拡大した。 石造伽藍建設の技術や図像にもカンボジア独自の技法や様式が使われていた。 続いて息子のウダヤデイティヤヴァルマン2世が1050年に登位して中心寺院バ ブオーンを建て、大貯水池西バライを開削した。

5.アンコールワットは300余年の土着技術の集大成

 スールヤヴァルマワン2世は1113年に即位した。すぐにアンコールワッ ト建設に着工したようであり、約30年かかって完成させた。アンコールワット とはカンボジア語で「寺院のある町」の意味で、ヒンドゥー教のヴィシュヌ 神に捧げられ、王の死後は墳墓寺院となった。その建立で証明された当時の 技術水準は、中央の本殿基壇(正確には東西215メートル、南北187メーノル) の上に65メートルを誇る大尖塔五基を構築できたことである。さらに周囲約5.5 キロ、幅200メートルの環濠には約500万立方メートルの水量がたたえられ、 その土木水利技術は水利都市をつくり出したのであった。アンコールワットは まさにアンコール朝の象徴となった大伽藍である。

 石畳を敷き詰めた幅16メートルの西参道には両側にナーガ(大蛇)の胴 体の欄干が続き、入口から第一回廊まで540メートルの参道が続く。それに数 キロにおよぶ大回廊がつながっている。当時の建築技術からは世界に冠たるも のであったといわれている。実際は西側が正式な参道であり、東側は建材など の搬入道路であったらしく、土塁のまま残っている。建築学的な特徴は、壮大 な宇宙観に基づく高塔と大階段と長い回廊であり、そこには300余年のカンボ ジア土着技術が集大成されている。

 アンコールワットは神聖なる祠であった。建築装飾でいえば、それは大 回廊内壁面に 200メートルにわたり帯状に彫り入れた薄肉浮き彫り絵図の素晴らしさ、高塔 堂の身舎頂上まで全壁面に施された巧緻な種々の丸紋文様や花弁文様などに よる背景演出の装飾にあふれ、さらに壁龕や堂塔四偶に飾りたてたテヴァター (女神)の浮き彫り立像がきらびやかな装具服身をつけていた。特に第一回廊 (200メートル×180メートル)内壁には帯状にインドの叙事詩を題材としたラ ーマーヤナ物語やマハーバーラタ物語の絵図が上から下までところせましと刻 まれ、さらに王の歴史物語絵図、天国と地獄の図、乳海撹乱の図、クリシュナ と怪物バーナの戦闘図などが有名である。アンコールワットにはその後、上座 部仏教の仏像が安置され、仏教寺院として現在に至っている。十字回廊などに 仏像が多数奉納され、近隣住民の聖地として生き続けている。

6.変革を求めたジャヤヴァルマン7世

 各地の征服と大寺院建立に明け暮れるスールヤヴァルマン2世は1145年 ごろまで統治していたようである。その後継者王は短命で、王位纂奪もあり、 国内政治は混乱していた。このような政治情勢の中で1177年に東隣国のチャン パ軍が川をさかのぼってトンレサップ湖経由でアンコール都城まで侵入し、王 都を占領した。

 国内の混乱を収拾して1181年に即位したジャヤヴァルマン7世は、各地 に四面仏顔の塔堂をつけた大小の寺院を多数建立し、国内各地に102ケ所の施療 院と121ケ所の宿駅を建設した。王の治下の版図はインドシナ全域にまで拡大 し、アンコール大帝国の隆盛をもたらした。アンコールトムとはカンボジア語 で「大きな町」の意味で、ジャヤヴァルマン7世が12世紀末から13世紀初めに かけて造営した宗教都城であり、現在のアンコールトムのことである。

 この都城は周囲12キロの環濠に囲まれ、高さ8メートルの高さの城壁と5 つの城門をもっている。城内には中心寺院バイヨンがあり、他に王宮、諸寺院、 祠堂、僧院などがある。その位置はアンコールワット西参道から約1キロのと ころにある。

 城門の上部には王の篤信する観世音菩薩の四面仏尊顔が飾られ、その高さ は23メートルに及ぶ。城門入口の前の幅113メートルの環濠にかかった橋の両 側には、ナーガ(大蛇)の胴体で綱引きをする54体の巨神像が一列に並んでい る。一方がテーヴァ(神々)で、他方がアシュラ(阿修羅)である。城門は馴 象山車牛車などが通り抜けられる。城門は朝開かれ、夜閉じられたという。

 ジャヤヴァルマン7世は仏教に帰依し、その中心寺院バイヨンでは観世音 菩薩(アヴァローキティシュヴァラ)が祀られていた。その塔頂には巨大な四 面仏顔が安置され、仏陀の慈悲が四周を照らすという考え方であった。この四 面仏顔の建築様式は世界にその類例がなく、アンコール時代独特の様式である。 バイヨンの設計は二重の回廊をめぐらせ、1 6の小祠堂を配した円形の中央本殿の上部にこの四面仏顔を高く積み上げ、高さ は45メートルに達している。さながら大きな岩石の山という観がある。

 バイヨンは建築中に何度かの設計変更があったらしく、複雑な建築構造と なっている。寺院は仏教寺院であるにもかかわらず、これまでのヒンドゥー教 のモチーフや彫像がそのまま使用されている。その内部には様々な動物や植物 の装飾文様が施され、破風など随所に神仏をたたえた浮き彫りが彫られ、諸教混 交的な傾向が見られる。

 建築手法や構造にも数多くの独創性が見られる。回廊浮き彫りには、壁面 にびっしり帯状の浮き彫り絵図が描かれ、その構図、手法、図像、題材とも写実 的であると同時に人物描写では迫真性にあふれている。特に彫像には内面的な精 神性が描きだされ、見ごたえがある。外回廊南面には当時の庶民の日常生活が描 かれ、アンコール朝軍とチャンパ軍の壮烈な戦闘場面も壮観である。

 城内にはパブオーン寺院(11世紀)、王宮跡、象のテラス、テッププラナ ム寺院(10世紀初頭)、プリヤパリライ寺院(12世紀前半)などジャヤヴァルマ ン7世以前の寺院、宗教施設がそのまま残っている。

 四面仏顔が配された建築様式には、アンコールトム以外においてもタブロ ーム(1186)、バンテアイクディ(13世紀初め)、ブリヤカーン(1191)、ニ ャックポアン、タソム僧院、バンテアイチュマール寺院などがある。



バンテアイ ・クデイ寺院(13世紀初め)での上智大学調査団〈1995年8月〉



   7.アンコール朝の崩壊と水利潅漑システム

 カンボジアの自然環境は高温多湿で、年平均気温が27度Cである。熱帯 モンスーン気候で、雨季が6〜11月、乾季が12月〜5月で、年間降水量は1400 〜20 00ミリである。特に雨季の9〜10月に雨が集中的に降り、雨水があふれて田地を おおう。そして、メコン川の逆流でトンレサップ湖の湖面が約3倍に膨らむ。各 地に広い氾濫源ができて、自然の水路などにより奥地まで雨水が運ばれ、広い地 域が潅漑化され、これが豊かな実りをもたらす。乾季の後半は猛暑となり、熱帯 夜が続く。

 昔からカンボジア人の生活の基本は乾季に備えて水を貯めることであった。 アンコール朝の大事業は、数か月間雨が一滴も降らない乾季において水を確保す ることであり、同時に雨季の集中豪雨を洪水にすることなく処理することにあっ た。そのために歴代の諸王は次々にバライと呼ばれる大貯水池、網の目のような 配水路、運河、環濠、橋、堤防などの水利施設建設に奔走した。現在の遺跡配置 図から見ても幅広い環濠、大きな面積を占めるバライ、水路、縦横に走る土手道 などが目につく。これらの水利施設は雨季の集中豪雨による洪水を防いでいた。 雨季の大量の排水と乾季の水の確保がアンコール王都では整然と機能していたの である。

 これらの水利網は、発掘や航空写真、衛星写真からも確認されている。16〜 17世紀にかけてアンコール地方を訪れたポルトガル人やスペイン人の宣教師たち は、当時、水利網が部分的ながら機能していたことを報告している。

 アンコール朝の発展は水の管理の拡大化に基づいている。アンコール都城 は、当時の政治、軍事、文化、交通の中心地であった。この時代には、都城につ くられた大貯水池と、その水利網の技術が、各地の村落の開墾に応用され、耕地 が拡大した。その結果農業生産力が発展し、人口も増加した。王朝の経済基盤は 農業であった。村人は、王を地上の神としてあがめていた。この時代の宗教や思 想はインドの宗教などの影響を受けているが、本質的には農業神や土地神を信仰 するものであった。

 繁栄の頂点にあったジャヤヴァルマン7世の治世の治下、アンコール朝はイ ンドシナの大半を支配する大帝国になった。しかしこの王の去後から、急速に衰 退へ向かう。1296年に元朝の使節通辞としてアンコール都城を訪れた周達観は、 その訪問記『真臘風土記』の中で、退潮が始まったアンコール王朝の様子を報告 している。

 衰退の原因は、14世紀半ば以降約80年にわたるタイアユタヤ朝との激しい戦 争にあった。何よりも打ち続く戦争によりカンボジア人が激減してしまった。多 くの人手により維持管理していた水利諸施設が機能しなくなり、広大な田地が荒 廃してしまった。このほかの原因は、王権の弱体化、過酷な徴税、地方の離反、 ヒンドゥー教的思想の停滑と行き詰まり、上座部(小乗)仏教の浸透などがあっ た。そしてアユタヤ朝との戦争に敗北した末、王都は1431年ごろ放棄されてしま ったのである。



上智大学調査団によるアンコール・ワット寺院(12世紀前半)西参道の保存 修復工事〈1994年3月〉


  8.旧アンコール都城と日本人

 アンコール王都は放棄された。しかしそのまま密林に埋もれ忘れ去られたわ けではなく、アンコールワットだけはヴィシュヌ寺院から仏教寺院に衣替えして存 続してきた。カンボジア南部へ逃れたアンコール朝の末裔の王たちが、旧都の一部 修復や住民の移住を奨励していたという史実が判明している。1546年にはアンチャ ン1世、1576年にはサータ1世王が寺院の修復を命じており、西欧の宣教師たちも これらの大遺跡やこの旧都城の様子を書き記している。

 日本では豊臣秀吉が全国を統一(1590年)し、関ケ原の戦いを経て徳川家康が 江戸幕府を開こうとしていた時代(1603年)であったが、カンボジアにはキリスト 教の布教目的や貿易活動等で多くの外国人が来航していた。この時代は東南アジアと 日本との往来も盛んであった。この往復には朱印船貿易で現地に赴く船舶が利用され ていた。渡航先は、現在のベトナムカンボジアタイマレー半島フィリピンインドネシ ア等であったが、当時の日本人はこの地域を南天竺と考えていた。

 アンコールワットの壁や柱にはこうした日本人の来航者や参詣者の墨書跡が14ケ 所も残っている。判読できるこれらの落書きの年代は慶長年(1612)から寛永9年(1 632)まで20年間のもので、その場所はアンコールワットの十字型回廊に集中してい る。この中回廊には1975年のポルポト統治以前までは200体あまりの仏像が安置され ていて、まさしく千仏堂的な感じのする荘厳な雰囲気の場所でもあった。

 その墨書の中で最も有名な墨書は森本右近太夫一戻(加藤清正家に仕えた旧臣 森本義太夫の息子)のもので、寛永9年(1632)正月三十日に父の菩提を弔い、老母 の後生を祈るため仏像4体をアンコールワットへ奉納したと書かれている。アンコー ルワット訪問時この右近太夫は父が重臣を務めた加藤家を辞して肥前の松浦藩に仕官 していた。

 当時アンコールワットを訪れた日本人はアンコールワットがかつてインドに あった「祇園精舎」と考えていたようである。そうしたことを裏付ける平面図「祇 園精舎の図」が水戸彰考館に残っており、長崎の通辞島野兼了が現地に出かけて作成 したという。その図はまさしくアンコールワットの絵図面であり、方位濠回廊等の記 述がほぼ一致している。

 右近太夫がアンコールワット参詣をした3年後の1635年(寛永12年)には、鎖国 の方針が打ちだされ、渡航禁止と帰国日本人の極刑が発表された。

9.諸寺院の栄光と石材の変質

 アンコール時代の栄光を物語るものは、現在残存しているアンコール遺跡群で ある。イエズス会神父CEブイユヴォーが1858年にアンコール遺跡を訪れ、その詳報に よればアンコールワットの保存状況は現在よりもいくらか良い状態に維持されていた ようである。アンコールワットは現在は上座部仏教の聖地であり、篤信する仏教徒が 絶えることがない。1858年当時ほとんどのアンコール遺跡は森林に埋もれていた。タ プロム寺院はほぼ19世紀半ばの発見されたままの状態で現在保存している遺跡である。 タブロム寺院の祠堂や回廊は榕樹[スボアン](沖縄では「ガジュマル」という)の 根が触手のように伸びて遺跡を締めつけ、破壊している。

 山岳型大寺院は、通常のくすんだ赤橙色の紅土(ラテライト)を土台や外側の囲 石に用いているが、その大寺院の中心部は版築された土砂がつめられている。言うな れば土まんじゅうである。外装には砂岩が使われ、彫刻や文様が施されている。第7 世紀から10世紀頃まで寺院や祠堂では焼いたレンガを使っていた。カンボジアの砂岩 には3種類があり、灰色、紅色、緑色の各砂岩である。初期の祠堂の開口部側柱や偽 窓には彫刻や文様を施された灰色砂岩を使っている。これら灰色砂岩が外装に使われ ているのは、9世紀のバコン寺院や11、12、13世紀の大寺院(アンコールワットやバ イヨンなど)である。10世紀のバンテアイスレイ寺院は紅色砂岩が使われている。緑 色砂岩はタケオ寺院( 11世紀)に用いられている。

 壮大な宇宙観を組み立てた宗教者たち、華麗な浮彫りを刻み込んだ彫工や図工た ち、大寺院の工事を指揮した棟梁たち、ブロック石材を黙々と積み重ねた石工たち、 こうした人たちの総力が大建造物を可能にした。ブロックの石材と石材の間にはセメ ントなどの接着剤や繋ぎ剤がない。寺院や回廊の屋根は持ち送り工法である。遺跡は すぐそばにたつ大樹の倒木で巻き添えを喰い、倒壊することがあった。

 一般的には、石と石の間にずれが起きて、木の根がその間に侵入していた。樹木 の根は石と石の間を通って祠堂や回廊などの石の上にどっかりと腰をすえる。

 遺跡の破壊問題でもっと深刻なものは、石材そのものの組成成分の変質である。 紅色砂岩では黒色斑点が随所にみられ、組成が変質したのである。緑色砂岩は鱗剥と 割れ目ができて、ブロックの一部が損壊することが多い。灰色砂岩では剥離、鱗剥作 用、風化、ひび割れ、反りが起きている。表面が窪み、白っぽく、あるいは茶色っぽ くなったりする。アンコールワットでは、第2回廊の北東隅塔の内部の壁面パネルは そり返って、表面は粉末状となってはがれ落ちている。十字型回廊内では石柱の下部 に苦行者の浮彫りが施されているが、その床面から上約30センチのところで、厚さ10 センチほどの石柱表面が大きくそげ落ちており、石柱そのものが柱として効かなくな り、総崩れする恐れがある。

 紅土は露天掘りで地中から採石できる。紅土の地層は柔らかく、それをトーフの ように切り出し、天日にさらし、水分が蒸発して固まり硬質化する。紅色砂岩は、完 全な珪質砂岩で、主な成分はカオリナイトで固められた石英である。かなり柔らかく、 多孔質だが水をためこまない(すぐ乾いてしまう)。

 灰色砂岩は斜長石と黒雲母、時には方解石を含んでいる。かなり軟らかく、多孔 質で滞水能力が高いので、変質しやすい。水は石の内部までしみ込み、そのまま留る。 斜長石や黒雲母が変質し、水がしみ込むと極めてもろい。

 これら灰色砂岩が採掘された採石場をみると、アンコール諸寺院が倒壊の危機に さらされている理由が説明できる。

 さらに、灰色砂岩もごく浅い50センチから1メートルの地中に在る。ところが当 時の石工たちは2メートル、あるいはそれ以上大きな支柱や開口部の側柱に、いつも一 本の石柱を用いている。つまり、石柱は必然的に「石目を垂直方向にして」使ったこと になる。

 しかしながら、カンボジアの自然環境から雨水の影響は、その水量が多いだけに 石材内部へ浸透し、滞水が続く条件下では石材の危弱化は決定的である。したがって雨 季には、雨水は支柱の根本にしみ込み、毛細管現象で内部から上方へ浸透し、石の表面 剥離を引き起こす。化学変化は斜長石と黒雲母で増長され、それに微生物の影響も加わ って弱くしている。

 アンコールワットの十字型回廊の支柱下部と第2回廊北東隅塔壁面で採取した石 材のサンプルからは、パスツール研究所のポション教授が無色硫黄細菌を発見した。こ の硫黄バクテリアは、灰色砂岩にふくまれている方解石(この場合は6.5パーセントだ った)を石膏に変えてしまう作用をする。こうなると一瞬にして雨水に溶けてしまう。

 アンコールの栄光を物語る遺産は、1858年当時も今も、その石材質ゆえに脅威に さらされているといえる。



アンコール・トム都城のバイヨン寺院(13世紀初め)の四面仏顔塔
アンコール・トム都城南大門入口(13世紀初め)


10.上智大学アンコール遺跡国際調査団の17年間の活動

上智大学アジア文化研究所は、まだ国交の開かれていない1980年から今日まで17年 間にわたり、カンボジア側の要請に応えて、アンコール遺跡の調査研究および保存修 復活動を手伝ってきた。活動内容は次の3つのプロジェクトに分けられる。

 (1)アンコール遺跡の調査研究および保存修徹活動プロジェクトは1980年から始ま った。1995年12月までに予備調査4回および公式調査17回の調査団を派遣してきた。 調査団には、日本とカンボジアを中心にフランスアメリカイギリススイスオーストラ リアベルギーエストニアなど9カ国から、233人(延べ人数)の専門家が参加してき た。その調査研究の成果は12冊の報告書〈『カンボジアの文化復興』 (RenaissanceCulturelleduCambodge:198 4〜1996)〉にまとめられ、国連機関各国政府関係者へ配布されてきた。また、一般啓 蒙書として『アンコール遺跡を解明する』5冊(1993〜1995)が刊行されている。特 に、保存修復技術の検証調査は1907年からのフランス極東学院の保存修復に実施して きたアナスティローズ方式を現場で検証し、その工法の改良について検討を加えてき た。さらに、石材劣化の診断機器を持ち込み(「共振法」東北工業大学盛もり合あい 禧たみ夫お教授の特許)フランス極東学院専門家も加わり、大きな成果を挙げた。

 (2)カンボジア人若手技術者および学生の人材養成活動プロジェクトは1989年3月 から始まった。第1回はプノンペン芸術大学の考古学部と建築学部において集中講義、 第2回目からは集中講義と学生の現場実習の2本立てとなった。また、1991年3月か らはバンテアイクデイ遺跡において学生の現場研修を開始した。1995年8月まで7年 半の間に芸大において9回53日間の講義、8分野の講義では約1,500人の学生に64人の 先生が講義をした。現場実習は15回、176名(延べ人数)の学生が、192日間実習し、 35名の先生がこの指導に当たってきた。現在も続いている。

 1993年からこの現地研修を受けた芸大卒業生や若手技術者の中から優秀な者を選 抜し、毎年2名〜5名が奈良国立文化財研究所の文化財特別研修コース(3カ月〜6 カ月)を受講している。現地研修を調査団が担当し、それをより高度な発掘修復の専 門研修を奈文研が受け持っている(奈文研アンコール文化遺産保護共同研究)。1994 年からは保存修復工事に備えてカンボジア人石工の訓練がはじまり、成果を挙げてい る。

 (3)遺跡村落森林との共存共生プロジェクトは1991年8月から始まった。私たちは 遺跡の保存修復だけを考えているのではなく、遺跡の周辺で生活している村人たちの社 会文化の再興をも考えている。近隣森林の自然環境の調査(植物生態など)およびバ ンテアイクデイ遺跡周辺の村落調査や水利調査などが開始された。さらにシェムリア ップ州全体の伝統文化についての調査、特に小型影絵芝居トロット(鹿頭行列)など はビデオに収録され、NHKから放映された。特に北スラスラン村の経済社会調査や伝統 民族文化の発展のマスタープランを、村人たちと共に実施中。これが村落と森林と遺跡 の共存共生プロジェクトである。

 (4)上智大学調査団の3つの文化協力の哲学。大学調査団はカンボジアにおける文 化協力活動につき次の3つの基本方針を構築している。

  1. カンボジア王国の自立を助ける文化協力を行うこと。
  2. 遺跡の調査研究と保存修復事業は連動させて行うこと。
  3. アンコール地域の経済発展と社会文化発展を調和させること。
ということである。

 結論として、アンコール遺跡の保存修復はあくまでもカンボジア人の手でもって なされることが原則である。何んと言ってもそこに暮らすカンボジアの人々の自立を 助ける文化協力が基本でなければならないと考えている。



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